「評」

 この頃催しの最後に総評とか講評を言ってくださいと依頼されることがありました。総評と講評はどう違うのかの前にどのような「評」があるのか調べてみました。時評、寸評、短評、世評、衆評、下馬評など結構な数の「評」があります。それぞれの意味は別の機会として、総評と講評です。広辞苑では、総評は「全体にわたっての批評で、概評とも言える」。講評は「説明を加えながら批評すること。また、その批評」とあります。批評は「物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論ずること」とあります。そうすると総評でも講評でも批評ですから、物事の善悪・美醜・是非などについて評価しなければなりません。これは大変なことです。総評は漠然とした雰囲気で良いかも知れませんが、講評となるとそうはいきません。具体的な部分に触れ解説しながら評することになります。同じ仲間同志の集まりであったり、そのグループの催しであれば評価することは出来るかも知れませんが、専門的な講師を呼んでの講演などがその催しに含まれる場合、その部分は評価できません。ひょっとしたら自分自身が理解できないかも知れません。困ってしまいます。これから総評や講評などを依頼された場合には、所感とか感想などに変更していただくことが出来るか問合せした方が良いと考えます。これなら自分が感じるところを述べればよいので誰でも可能です。数字や勝敗などで結果の出ないものに対する「評」というのは難しいものです。
「日本人には評論家が多い」とよく言われます。本来の評論する職業の人を指すのではなく、自分で実行せずに人のことをあれこれ言うことを指します。最近はインターネットで情報が世の中に溢れています。「講釈師見てきたような嘘をつき」という言葉がありますが、世の中講釈師的な人が増えている気がします。本当の講釈師は歴史的なこともきちんと学び、その出来事が聴き手に面白く、よりわかり易く伝わるように脚色しているので、ネット齧りの輩とは訳が違います。「講釈」ばかりで、何もせず、そのうえ偉そうにする人は、言葉(講釈)を褒める気持ちは起こらず、「癇癪」(かんしゃく)が起こります。実は私自身も若い頃は知ったかぶりをしました。少し齧ったことをさも良く知っているような口振り。すぐに浅いものだとわかってしまうのに。ああ、自分ながらに恥ずかしいことです。
 最初の「評」の話から随分離れてしまったようですが、「評」にはそれなりの勉強や知識が必要で、日本人に多いと言われる俄評論家になってはいけません。しかし感じること、感じたことを話すのであれば、きちんとそれを前置きして話せば、自分自身の表現にもなるし、話をより深いものにすることにも繋がるのではないでしょうか。言葉が持つ意味をよく理解したうえで取組まないといけません。要注意です。

「オマエ、今まで自分が思てもないところで恥をかいとるかも知れへんわ。どないしょう」
「アンタも気付いた? うちも時々それ思うねん。言うたことエかったんかなってな」
「オマエもそう思うことあるんや」
「アンタせやけど、済んだことやでしゃあないやん。今度チャンと考えていこ」
「やっぱり夫婦やな、同んなじや。同んなじやわかったとこで、くっと一杯いこか」
「アンタ、反省会やな。よっしゃ・・・」

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